慈しむ事

あの時
自分はどんな気持ちだったんだろう。

大晦日
ある曲の製作のプリプロを行った。
どういう内容の詩なんですか?
と聞いた。
その答えを聞いた私は
薄れてしまった、というか
忘れてしまった感情を思い出す為に
実家に帰らねばと思った。

この日記にも以前書いたが
私が小さい頃にコロという名の犬を
飼っていた。
高校生の時にバイトから帰宅すると
コロは亡くなっていた。

家族全員泣いていたが
おれは涙を流さなかった。

今思うとあの時
自分は泣いてはいけないと
出来るだけ悲しい気持ちを
抑えていたのかもしれない

家族の気持ちを救う事は出来ないが
おれまで泣いてしまったら
支える人が居なくなってしまう

弱いなりに必死になっていた

時は経ちあの日の感情は忘れていた
実家に帰りコロの断片を見て
その気持ちや想い出が少し戻ってきた

今はもう居ないけどあの時
コロと共に過ごし生きていけたのは
とても幸せだと思った

それを思うと少し涙がでた。
おれはあの時より弱くなったのだろうか、
強くなったのだろうか。

コロが天国で元気にしていたら嬉しい

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フルート

2016-08-24 19.53.17-1

音楽の神様はいつもずるい。

誰にも相談出来ない思いが溢れ、
それが昨晩溢れてしまった。
吐いてしまうのは仕方ないが
吐く場所は考えないとなって反省した

先日サマーソニックへ行ってきた。
目当てはRadiohead。
フジロック以来。
期待も高まっていた。

ステージが始まり興奮していた。
が、時間が経つにつれて
周りの人達の高いテンションとは
反対に向かっていた。

トムヨークのMC時のパフォーマンスに自分は疑問を覚えてしまった。

そして、creepは流れた。
会場は歓声で本当に地面が揺れていた

その時自分は
多分多くの人とは違う気持ちで
泣いていた。

本当にトムヨーク、Radioheadは
creepを演奏したかったのだろうか。

あまりにも勝手に自分は落ち込み
そしてライブを見届けた。

単純にcreepを演奏してくれて
嬉しい、ありがとう。と
思えなく音楽を穿って感じるように
なってしまったのかと。

生creep聴けてこんなに
落ち込んでるのおれぐらいだろうなと
思ったが、Genius P.J’sのサポートドラムの祢津くんとこの話をして
近い感覚を持っていてくれて、
この人とバンドが出来て良かったと
少し救われた。

表面張力ぎりぎりの
毎日を過ごしていたが、
そしてその水は溢れた。

迷惑や心配、メッセージをくれた
沢山の方々ありがとうございました。
そしてごめんなさい。

私が音楽をする意味のひとつを
くれているのをとても感じました。

やたら物が壊れる最近。
泣きすぎたのか、
脱水症状を起こし病院へ。
帰宅後壊れた水道管を大家さんと
治してると、
機材だらけのうちの中をみて
大家さんが
“こんな沢山の機械を使って音楽するなんて凄いね。
おれは音痴だから尊敬するよ。そうだ、君はフルートは吹くかい?と。
君は情熱と才能があるから
嫁いで居なくなった娘さんのフルートを
使わないより、使う人に届いた方が楽器も幸せだと下さった。
そしてまた泣いた。

大家さんはそこまで泣くか?
っていう顔をしていた。

音楽に挫折しかける度に
音楽の神様は少しだけご褒美を落とす。
いつだって音楽の神様はずるい。

明日の夜から
Genius P.J’sリリースパーティーの為
大阪、京都へ。

逢える皆様宜しくお願い致します。

それにしてもフルートの組み方は
まだわからない。

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旅をするという事

 
台湾に向かう空港行きのバスで
偶然ジェフに会った。

ジェフに写真を撮って貰い初めてから
の付き合いはもう何年になるんだろう

やたらいきなり忙しいメールを
送ってくる台湾のFES
“spring scream”に
Genius P.J’sで出演の為
私達は台湾への旅に出かけた。

英語も中国語も出来ない中で
台湾のかなり北から、会場のある
最南端まで乗り換えの多いこの旅は
不安であった。

しかし各地の台湾人の方々に
とても優しくして貰い
大きいトラブルも無く順調に進んでいた。

だが一つ大きな問題を抱えていた。

サポートドラムの祢津くんを
加えた3人でのライブだったのにも
関わらず、自分達のステージが
ドラムが無い疑いが浮上したのだ。

先発している友達のバンドに
確認をした所、やはりステージには
ドラムが無いと。

言葉が上手く話せない中このピンチを
自分は打開出来るのだろうか。。

移動中の数時間色々と関係者に
連絡をしていたが状況は変わらなかった。

出発から12時間。
ホテルがある高雄に到着する時、
先発していた友達のバンド
“リビドーと悪魔”の平くんから
電話があった。

“主催とコンタクトがとれたよ!
後からドラムが必要なのに気づいて
ステージ変更したよって言ってたよ”と。

身体と心の緊張が一気にとけて
ふにゃふにゃになったのを今も覚えてる。
(平くん、そして関係者の方々本当にありがとうございました。)

翌日さらにバスで3時間ほど南下し
私達は台湾最南端の会場に到着した。

気づけば遠くに来たもんだと思った。

会場でもmement森、ZARIGANI$や
台湾のお客さんと沢山話し
良い時間を過ごせた。
初めての台湾ライブなので
お客さんいないかもと思っていたのだが、
ステージ前に多くのお客さんに
集まってもらえた。

chamois,祢津くんとの3人で出来るライブと、
台湾のお客さんに見て貰える幸せを深く感じ
ライブをする事が出来た。
そして日本語のラップと音が
伝わっているのを見てくれてる方々の
表情とリアクションで感じた。

ライブが終わった後も
沢山の方々にCDが欲しいと言って貰えたり
感想を熱く伝えくれて本当に嬉しかった。

その中でも
一つ印象的だった事があった。
会場がどうやら禁煙だったようなのだが、
わからず吸ってしまい警察に
色々されている女の子達がいた。
もちろんショックを受けている
様子がまざまざとわかった。

その子達がライブを見てくれて
“ライブを見て感動して涙が出そうだった。
今日来てよかった”と。
その言葉に誰より力を貰えたのは
自分だった。

テキーラを呑みすぎて
若干二日酔いの日本への帰り道。

自分は移動距離の長いこの旅より遠い所まで
音楽で来てしまったんだなって思った。
音楽との旅を続けてる今、
おれはこの先何時まで出来るんだろうと
考えている。
もしかしたらアーティストとしての
死は近づいてるのかもしれない。
と思ってしまう日も正直ある。

そんな時ふと思うのが
一度だけ音楽を辞めてしまうかもと
相談した時にジェフが言った

“クロダが幸せになるんだったら何だって
大丈夫だよ”って一言だった。

音楽であの日死ななかったから、
自分の音楽は昨日のあの子の幸せに
少しはなれたのかなと思った。

もう少し自分の音楽の旅は
続きそうである。

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初めてのhomesick

昔から逃げ隠れるのは
得意だった。

私は小さな頃
両親が共働きだった為
保育園に入れられていた。

“太陽”と名付けられたその保育園を
私はとても嫌いだった。

それは元々食が細く偏食だった私に
先生が無理やり給食を食べさせ
食べられないとみんながお昼寝の
時間まで一人給食を食べさせられた。

それがトラウマになったからだ。
未だに給食の香りがすると
あの嫌な感じを思い出す。

ある日から私の登園拒否は始まった。

母の出勤の時間に
保育園に連れて行かれる為
その時間までに
私は色々な所に隠れた。

ソファーの下や押入れ、タンスの上や
それに犬小屋の犬の後ろにも隠れた。

しかし私を散々探していた母も
見つける方のプロになっており、
毎朝保育園に連行されていた。

ある日いつもの通り隠れている所を
見つかり行きたくないと駄々をこねているとおじいちゃんが
“今から箱根に行くがセイイチも行くか?”
と言ってきた。

祖父はボロボロの車一台で
母におにぎりを2つ作ってもらい
色々な所へふと旅に出る人だった。

その日のおにぎりは3つになり
私はおじいちゃんと初めての旅に出た。

保育園に行かなくてよい嬉しいさと
初めて見る景色の新鮮さに
私はとてもはしゃいでいた。

箱根の民宿に着き
おじいちゃんとの夜。

急にやってきた両親がいない不安と
恐怖に私は大号泣しおじいちゃんを
大いに困らせた。

人生初めてのホームシックである。

散々泣き喚いた結果
おじいちゃんは私を連れて
家に帰ってきてくれた。
(天国のおじいちゃん本当ごめんね)

その夜両親の布団の間で、
安心して眠りについた。

歳を重ね日々を生きている。
大人になってもあの日の給食のように
逃げ隠れたいような事が沢山起こる。

でもあの日のように
強い風から守ってくれる両親は
近くにはいない。

強く生きていかなくては
いけないのだ。

そして今になって思う
両親の優しさを痛烈に感じる
この頃である。

いつかは誰かを守れる強さを
つけたいと思った。

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生きがい

年始
久々に実家に帰った。

一人欠けた実家の光景は
未だに慣れない。

募る話が沢山あったのか
母はマシンガンの如くおれに
色んな話をしてきた。
そしてその話の9割以上が
毎日の生活の辛い事だった。
おれは返す言葉が殆ど出ず
優しい言葉もかけられず
母に申し訳ない気分でいっぱいになり
黙り込んでしまった。

そして実家に帰るのが
正直辛くなっていた。

 

数年前、
家族に色々な問題が出てきて
帰省していたある夜、母が
“子供達には普通の幸せや楽しみを与えられなくて申し訳ない”と
泣きながら話をしてきた事があった。

父は会社員、母は美容師。
自分が小さい頃、両親とも帰りが遅かったのと
くたくたな姿を見ていたので
おれと妹は洗濯物をたたんだり、
雨戸を閉めたり、お風呂を沸かしたり
時には隠してあったお金を拝借し
カニクリームコロッケと唐揚げを
近所のお肉屋さんで買ってきて
空腹を自分たちで満たしたりして
二人には(特に母親には)
少しでも楽になってもらえればと思っていた。

母親は美容師で休日が火曜日だったので、
家族全員で旅行に行った思い出は一つもない。

それでもそれが普通と思って
生きていたので寂しい事も無かった。

なので母の幸せを与えられなかった
という言葉を聞いておれは、

“おれらはお母さんが一生懸命働いてくれて、
自分の時間を全て使って俺らを育ててくれて感謝してるし、
逆になんでそこまでするんだ?もう全て自分の為に時間をつかってくれよ!”と
少しだけ怒りにも似た感情で
それを言ってしまった。

 

帰ってきた言葉は
“あなた達が私の生きがいだから”と。

 

おれはまだ胸を張って
音楽で結果を残せたよ。と両親には
言えない。

おれは貴女の生きがいとして
自信を持てる毎日を過ごせて
いるのでしょうか?

ただ一つだけ。
母のあの言葉にちゃんと

恩返しが出来る生き方をしたい。
と今も思っています。

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初めての辛い別れ

  

辛い別れが人を成長させる。

私はタオルケットというものが
とても好きで
寝る時にあの肌触りが
とても気持ちいい。

その昔、保育園生の私は
“さかな”と呼んでいる
タオルケットを持っており
それを非常に愛していた。

なぜ”さかな”と呼んでいたかというと
タオルケットの端に普通の安全ピンがついていて、それが当時の私には
さかなに見えたようで
それ込みで”さかな”と呼んでいた。

何処に行くにも持ち歩き
安全ピンは噛みまくり
数年も使っていたので
さかなは、もはやタオルケットとは
呼べないレベルの造形になっていた。

が、私それでも深くさかなを
愛していた。

ある日私は嘔吐が止まらない
病気になってしまった。
胆嚢炎という病気で
人生初めての入院をした。

相当気持ち悪いながらも
生意気盛りの私は
母に
“さかなを持ってきてくれたまえ”
と指令を出していた。

もちろん病院でもさかなとは
いつも一緒。

2週間程の入院生活を終え、
家に帰ってこれた。

私はすぐに異変に気付いた。

さかなが無い。

親に”さかなはどうした?!”
と怒号をあげたが
“病院に忘れた”の一点ばり。

今すぐ病院に行って
さかなを取ってくる、
と家を飛び出した私に
母は
“あまりにも汚すぎるから病院の焼却炉に捨てた。だからもうさかなはない”と言った。

私は一晩泣いた。

それから母とは暫くの期間
話をする事は無かった。

見兼ねて母は
二代目さかなを買ってきたが
もうそれに愛情注ぐ事が
出来なかった。

そして私はタオルケット
立ちしたのだ。

生きていると辛い別れがある。

その辛い別れとはふいに
やってきて人に成長をもたらす。

でも心の強くない私は
そんなに辛い別れは
沢山無くてもいいなって思った。

あれから数十年経った私は今、
新しいタオルケットを
抱いて寝ている。

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信じる

  
今Genius P.J’sは
ドラムの祢津くんと
サックスの村上くん、
ベースの安西さん、
バイオリンの百瀬さんが
ランダムながら
ライブに参加してくれて
バンドという形態でライブが出来ています。

おれはメンバー全員が
本当好きで
自分が好きな人と音楽が出来て
幸せだと思っています。

昔は色々気にして
ライブというか、楽曲の中に
心が入りきるということも出来ない
事もあったのですが、
ここ最近は良い意味で
“ある為の音”がこのメンバーから流れ
自然にその世界感の中で
ライブをさせて貰ってます。

それはなんというか、
例えばそれがすぐ横が崖で、
そんな状況で
みんなに体を預けているのにも
近い気がします。

それでも不安は無いんです。

きっとそれが信じるという事なのかもなと思いました。

人を信じる事は
怖い事もあるけれど、
それでも信じてみようと思った。

そして自分も
信じて貰える人になりたいと
強く思っています。

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石をつむ

  

先日ここ数年の自分の事を
話す機会があった。
自分でも話して改めて
ここ数年の事を思い出した。

もっともっと前に進まなくては。
まだ何にも成せてない。

いつも思っていたが、
改めて整理していくと
色々な方々のおかげで実は
とても貴重な経験をさせて頂いてる事に今更ながらに気がついた。

もっと沢山の人に
自分の音を聴いて貰うには
もっと高い所に
身を置かないといけないと思い、
日々石ころを積んでいた。

それは階段というには
あまりにも貧素で、安定感も無いものだった。

それでもひたすら積んでいた。

この安定感も無い石ころが
凄い高さまで言って崩れた時に
おれは死ぬなと思った。

暫く石ころつむ事を止めていたおれは
先日から
また石ころを積む事を始めた。

この話を聞いてくれて人をみて、
おれがこの石ころから
落下して死んで
みすぼらしい姿になっても、
頑張ったねと
言ってくれる気がした。

またおれは石をつみたい。

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